こんにちは、MSLABOです。
最近はスマートフォンやインターネットが普及したお陰で、生活や仕事のスタイルが、昔とはずいぶん様変わりしました。でもこれは、果たして喜ぶべき事なのでしょうか?。
今日のポイント
自由が増えすぎた世界
おじさまの若い頃は、XX会社のAさんと話をしたい場合は、相手の会社に電話をかけて「取り次いで」もらう事が当たり前でした。当然、その会社の営業時間外だと、Aさんに連絡する事は困難となります。
でも今では全員がスマホを持っているので、担当者の電話番号やメールアドレスを聞き出して、相手に直電話・直メールすれば解決です。
知り合いの会社では、社員が各現場に行きっぱなしで自社に戻ってこないため、なんと社内の定例会議はSNSの上で行うのだそうです。・・・時代は変わったなぁと感じます(汗)。
好きなあの子をデートに誘う際も、緊張しながら、相手の自宅に電話をかける事さえありません(笑)。手軽に、便利になりました。
生活スタイルについても、同じことが言えます。
アマゾンや楽天では、数え切れないほどの商品がオンライン販売されています。お金や時間が許すのであれば、様々な商品を横並びにして眺め、価格や機能や利用者レビューを比較しながら、購入する事ができます。
(画像URL:illust-AC 様:hikacha さん)
人生の選択肢といえるような「就職」や「受験」「結婚」でさえ、昔に比べると、はるかに沢山の選択肢が提示されるようになり、いろいろと選ぶことができるようになりました。
- 沢山の会社をインターネットで検索して、エントリーする
- 似たような合格ラインの高校や大学を調べて、複数の学校に願書を出す
- 合コンや婚活で沢山の異性と出会い、品定めをしながらパートナーを選ぶ
昔に比べて便利になり、圧倒的に選択肢が増えたことは、「自由度が増えた=人生の可能性が増えた」とも言えますよね。
でも果たしてこれは、手放しで喜んでも良い現象なのでしょうか?。
選択肢が私達を不幸にする
インターネットが普及する事で、世界は確実に狭くなりました。全国どころか全世界の情報が、瞬時に伝達されていく世界。
昔であれば「地元で一番安いお店」も、ネットで瞬時に、全国、いや全世界の商店と横並びで比較されてしまうため、「安さ」だけを武器に売る事が難しくなってきています。
才能にしてもそうです。インターネットを通じて、全世界の似たような特技をもった人が比較されるため、「おらが村では一番」なだけでは、必ずしも周りに認めてもらえるとは限らなくなりました。
婚活もそうではないでしょうか?。「多少気に入らないところがあるけど、そうそう出会いがあるわけでもないし、まぁいいか」などと諦めてくれるとは限りません。直ぐに別の人を検討する・・・そんな世の中になっています。
沢山の選択肢が提示され、自由に選ぶことができる世界では、仮に選択ミスをした場合、それはすべて「自分の責任」となります。
「だって、他に選択肢がなかったんだもん」という言い訳ができないからです。
選択ミスをしたのは、自分。他にも沢山選べたはずなのに、もっと良いものがあったかもしれないのに・・・です。
選んだものに多少でも不満があった場合、なぜこれを選んだのだろう、もっと別のものにすればよかったのでは?・・・という、隣の芝生は青く見える現象が止まらなくなる可能性があります。
(画像URL:photo-AC 様:buriさん)
「残酷すぎる成功法則:エリック・バーガー:飛島新社」では、このように、情報の洪水に流され、目移りしながら「選ばされている人」の事を「つままされる人(ピッカー)」と呼んでいます。
自分で選択しているつもりが、これでもない、あれでもないと、「選ばさせられている」のです。
この話を読んで、結婚アドバイザーの方が書いた「いつまでたっても、結婚できない人」の記事を読んだことを思い出しました。
その記事によれば、結婚できない人の中には、誰もが想像するような性格や容姿に問題がある人だけではなく、容姿端麗で高収入、高学歴の人が少なくないのだそうです。
容姿端麗で高収入、高学歴の人は、一般的に「モテ」ます。そのため、「もっと自分にふさわしい相手がいるのではないか?」と目移りしているうちに、どんどん相手への期待が高くなり、結局、婚期を逃してしまうのだとか・・・。
「複数の選択肢を検討し、最高のものを選ぶ」と言えば、いかにも理想的な行動に思えます。
しかし先の本によれば、心理学者のバリー・シュワルツの研究を引き合いに出し、このような方法では「かえって満足が減る」と指摘をしています。
なぜなら、常に「もっと良いものがあったかもしれない」という疑念がつきまとうからです。多すぎる選択肢は、私たちに自由を与えますが、満足や幸福感を奪うのです。
自分を見失わない生き方
先の本によれば、アメリカでは30代以下の若い人たちの幸福度が、それ以上の年齢の世代に比べて「低下」している事がわかった事例を紹介しています。
一体何が起きているのでしょうか?。
アメリカでは日本以上に「ポジティヴに考え、能力を伸ばし、夢をかなえる」という、アメリカンドリーム的な考え方が蔓延しているそうです。
自由の国、平等のチャンス。だから自分の努力次第で、なんにでもなれる社会。
でも現実は、インターネットの普及に伴い、企業や個人を問わずにグローバルな競争に巻き込まれ、「多少の才能や、少々の努力」では、到底「夢や理想」を叶えることができない現実が待ち構えています。
なんにでもなれる社会は、仮にその夢が実現しなかった場合は、誰のせいにもできない「自己責任」が問われる社会です。
だから「高すぎる壁」を前に、絶望し、疲弊し、「おれなんてどうせダメだ」と感じる人が増えている。どうやら、そういう事のようなのです。
(画像URL:illust-AC 様:なのなのな さん)
日本でも、将来をあきらめる無気力な若者が増え、中高年の自殺率が高止まりをしています。私には、なんだかこの話と無関係には思えません(汗)。
昔のように「おまえは農民になるしかない」という社会は、それはそれで不幸で不自由です。そんな社会が良いとは言いません。でも、別の意味では幸福だったのかもしれないのです。
なぜなら、「俺は、もしかしたら侍になれたかもしれない。いやいや将軍様にだってなれた筈だ」と悩む事はないわけですから。
ではこのような自由の名の元に、無限とも思える選択肢が提示されるようになった社会で、少しでも幸福に生きる為にはどうすれば良いのでしょうか?。
本によれば、それは次のような問いかけを、自分にする事だといいます。
「私は、自分に何を望んでいるのか?」
本の著者、エリックは次のように指摘をしています。
「(もしも自分で、自分の欲しているものを決めないなら)あなたは、”他の誰か” が、あなたに望むものを得るだけになる」
そして、こう書き記しています。
「人生にどんなものがそろっていたら、あなたは十分に満たされたと感じるだろう?。(中略)数限りない選択肢が絶え間なく声を張り上げているこの世界で、(中略)「ありがとう。でも、もう十分です」と静かに言わせるのは、どんな要素を組み合わせたものだろう?」
『選択肢を前にした若者が答えるべき問題は、正確には、何をしたらよいかではなく、自分を使って何をしたいかである』
ピーター・F・ドラッカー:経済学者
多すぎる選択肢が、かえって私達を不幸にしていると指摘をしたバリー・シュワルツ博士は、「つままされる人(ピッカー)」になるのではなく「自ら選ぶ人(チューザー)」になれと指摘をしています。
自分の人生に必要なものを、自分で選ぶのです。
いや、多すぎる選択肢があるのですから、「不必要なものを積極的に削除して、必要なものだけに絞る生き方をする」といった方が良いでしょうか?。
『自分に必要のないものを、どれだけ捨てられるか。今は、それが問われる時代でもあるんです。』
金子 勝:経済学者
あれもこれも選択できる事は、とても幸せなことだと思います。でも「自分は何が欲しいのか」が定まっていないと、多すぎる選択肢に振り回されるばかりとなってしまいます。
現代のように、絶え間ない選択とグローバルな競争にさらされる社会では、「自分を見失ってはいけない」という事ですね。
自分を見失わないためには、1日の中で、ほんの少しでも1人になる静かな時間を確保して、自分の好みや幸せについて具体的に考える時間を持つ事だと、本の著者も指摘をしています。
さて、あなたはどうしますか?。
今日も情報の洪水に流されるまま、なんとなく生きていくのでしょうか?。それとも自分に必要なものを見定め、不必要なものを捨て去る決断をするでしょうか?。
私も深く考えて見る必要がありそうです。
Myオフィスより感謝を込めて。
長い文章を読んで頂き、ありがとうございます。あなたにもよきことが沢山起きますように。
今日の学び:自分を見失うな!
今日の箴言:
ピーター・F・ドラッカー:経済学者
金子 勝:経済学者
今日の書籍:残酷すぎる成功法則:エリック・バーガー:飛島新社
今日の写真:illust-AC 様:DB07 さん