こんにちは、MSLABOです。
年はとりたくない・・・誰もがそう思います。ネットやテレビで活躍する人たち。ステージに立ち人々の注目をあつめるのは、いつも輝くばかりの若さをもった青年や美女たちです。
今日のポイント
その一方で、現実には中高年以降に輝いた素晴らしい偉人達がいるのです。今回は、そんな偉人達を紹介してみたいと思います。
伊能 忠敬の場合
伊能 忠敬(いのう ただたか:1745年-1818年:73歳没)
ブレイクした年:50歳
歴史の教科書に必ずといって良いほど登場する人物です。江戸時代にあって、驚くほど正確な日本地図を書き上げた人です。
忠敬は6歳で母親を亡くしています。いろいろな経緯をへて伊能家の婿養子となった彼は、50歳になるまで商家の主として伊能家の再興に力を尽くします。マスオさんだったんですね、彼は(笑)。
彼を有名にした「地図の作成」は、なんと隠居してから始めた事業でした。
人生50年と言われた時代。その50歳の時に江戸に出て、天文学者の高橋 至時(たかはし よしとき)の弟子となります。弟子です。師匠じゃありません。その時、師匠の至時は31歳でした。
普通、年下の若者に「弟子入り」するなんて、オジサマのプライドが許しません。にも関わらず、忠敬は19歳も年下の男に弟子入りするのです。
それほどまでに、測量や観測に興味があったのでしょうか?。
弟子入り後、寝食を忘れて観測の研究に励む忠敬は、いつしか「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)という ”あだ名” で呼ばれるようになりました。
(画像URL:photo-AC 様:だいにゃんさん)
1800年忠敬55歳の時に、蝦夷(えぞ:今の東北から北海道あたり)の地図作りを始めます。しかし時の政府(幕府)から許可は出たものの、十分な協力は得られませんでした。そのため、1801年の第2回目調査では調査費用を70両あまり自費で負担しています。
その額は、現代のお金に直すと1200万円にもなるそうです。年下の男に弟子入りし、1200万円も自腹を切って、趣味の研究をする男。現代で言えば、さながら退職金をつぎ込んで趣味に高じるオジサマです。
忠敬・・・タダものではありません(汗)。
そんな苦労が報われるのは、1804年。作成した地図が11代将軍徳川 家斉(とくがわ いえなり)の目に留まり、ようやく幕府の全面的な協力が得られる事になるのです。
それ以降、1816年の第10回測量調査まで、測量と地図の作成に人生を捧げることとなります。その成果は彼の死後、『大日本沿海輿地全図』として完成しました。
明治維新後、技術先進国だったイギリスは、海軍を派遣して日本に地図を作成する為にやってきます。ところが、忠敬らが作った『大日本沿海輿地全図』のあまりの正確さに驚嘆し、自分たちで地図を作るのをあきらめたと言われています。
『人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない。』
伊能 忠敬:商人、日本地図作成者
(参考URL:Wiki 伊能 忠敬記事 様、NHK for School 様)
ハーランド・デーヴィッド・サンダースの場合
ハーランド・デーヴィッド・サンダース(1890年 – 1980年:90歳没)
ブレイクした歳:65歳
ケンタッキー・フライドチキンの創業者。愛称はカーネル・サンダース。カーネルって本名じゃなかったんですね・・・知りませんでした(汗)。
カーネルとは彼の業績を評価して、地元ケンタッキー州から送られた名誉称号だったのです。
彼は30歳になるまで、様々な職業を点々とします。
鉄道機関士、ボイラー係、保険外交員、フェリーボートの経営、ガスランプの製造販売、タイヤ工場の営業マン。ガスランプの製造販売では、時代の波(電化)に負けて破産を経験しています。タイヤの営業マンだった工場は、彼の活躍も虚しく倒産しました。
その後、30歳で始めたガソリンスタンドは、他に無いサービス(車の窓を拭くなど)を行う事で評価を得ます。ようやく彼の人生にも光が見えるのです。
ところがそのガソリンスタンドは、サンダースが39歳の時に起こった世界恐慌が元で倒産。翌年40歳の時には、一人息子を亡くしてしまいます。なんてついていないんだ、サンダース!。
はい。普通はこの辺で「ヤケ」になるものです。でも彼は違いました。
人生のドン底にもめげず再度ガソリンスタンドを再開したサンダースは、ガソリンを入れに来るお客さんにもっと喜んでもらうため、ガソリンスタンドに隣接した物置で、イスが6つしかない『サンダース・カフェ』を開きました。
これこそが、そののちに世界的なフランチャイズ店となるケンタッキー・フライドチキンの大元です。
(画像URL:illust-AC 様:ヘコウィンさん)
その後、宿泊業(モーテル)にも乗り出したサンダースは、心地良いサービスを提供する事で客の心をつかみ、快進撃を続けます。
やったぜ、サンダース!。これでOK・・・とおもいきや、ようやく事業が軌道に乗り出した49歳、今度はそのカフェとモーテルを火災で消失してしまうのです。本当に、ついていないんです・・・このオジサン・・・。
それでも「あきらめない」サンダース。51歳でカフェを再建すると、順調に売上を伸ばします。
今度こそ「勝利」を得たかに見えたその時、新たに建設される道路が店の前を迂回する事になります。車の流れが大きく変わり、客足が遠のいてカフェは閑古鳥が鳴く状態に・・・。
サンダースさんはこの時既に65歳でした。さすがに引退を考えたそうです。そりゃそうですよね。いったい何度人生の坂を転げ落ちればいいんだって状態ですから(汗)。
しかし、しかし!です。ここで引き下がらないのがサンダースです!。
彼は考えぬいた末に、店で評判だったフライドチキンをフランチャイズ化する案を思いつきます。そして、友人のレストラン経営者であったピート・ハーマンを第1号のフランチャイズ契約者にする事に成功するのです。
ついに運命の女神はサンダースに白旗をあげました。
ここに、外食産業として世界最初のフランチャイズ形式を採用した「ケンタッキー・フライドチキン」が誕生するのです。
『私はけっして特別な才能を持っていたわけでも、とくに運に恵まれていたわけでもない。私がしてきたことは、毎日毎日、眼の前にある自分に与えられた役目、人を喜ばせること、人を勇気づけることに全力で取り組み、精一杯生きてきただけだ』
ハーランド・デーヴィッド・サンダース:ケンタッキー・フライドチキン創業者
(参考URL:KFC公式ページ 様、街活ワーキング2080・・・通称、マチワグ 様)
コンパイ・セグンドの場合
最後は「絶望は神さまからの贈りもの:ひすいこたろう、柴田エリー:SBクリエイティブ」に紹介されていた「コンパイ・セグンド」の話です。
コンパイ・セグンド(1907年-2003年:95歳没)
ブレイクした歳:90歳
彼はキューバを代表するミュージシャンです。1939年に結婚し、1940年代には友人と2人で音楽ユニットを結成しています。
ところが、時のキューバでは共産革命が吹き荒れます。彼の音楽は資本主義の遺物とみなされ、活動停止に追い込まれるのです。結婚していた彼は、家族を養うために、やむなく葉巻屋で働くことになりました。
以降17年間、彼の音楽は注目されることはありませんでした。
(画像URL:photo-AC 様:acworksさん)
しかし彼が90歳の時、その音楽活動を題材にした映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が大ヒットし、一躍世界的なスターとなります。
「本当に大事なことは、ほとんどいつも思いがけなく起こるもんだ。夢に見ていた好機、成功、愛・・・そんなものがいつ訪れるかなんて、誰にも分からないものさ」。コンパイはこう語っいます。
また、こうも述べています。「だから準備して油断せずに気を配ってなきゃいけない。そういった流れは、普通、二度とは訪れないからさ」。
ひすいさんは書かれています。
「朝になれば日が昇るように、春が来たら、さくらが咲くように、準備が整ったときに、必ず、君も花を咲かせます。だから、準備を怠ることなく、油断することなく、毎日を丁寧に過ごそう」。
『私の人生にも花が咲きました。誰にでも人生の花が咲くチャンスはあるんです』
コンパイ・セグンド:ミュージシャン
あきらめない心、一途な努力。彼らの人生は、まさにそんな人生です。
もう年だからと、あきらめる事はいつでもできる。あきらめないで、努力を重ねていけば、運命の女神にだって勝てる。そんな事を、偉人達の人生からは学ばせていただけます。
自分もいい歳したオッサンですが、彼らと比べれば、まだまだ若い(笑)。
人生80年、この先何があるかなんて誰にもわかりません。だから、もうひと頑張りしてみよう!。偉人達の人生を調べるうちに、そんな思いにさせて頂きました。
名古屋:伏見のオフィスより感謝を込めて。
長い文章を読んで頂き、ありがとうございます。あなたによきことが雪崩のごとく起きますように。
今日の学び:諦めることはいつでも出来る。最後まで前に進め!。
今日の箴言:
伊能 忠敬:商人、日本地図作成者
ハーランド・デーヴィッド・サンダース:ケンタッキー・フライドチキン創業者
コンパイ・セグンド:ミュージシャン
今日の書籍:絶望は神さまからの贈りもの:ひすいこたろう、柴田エリー:SBクリエイティブ
今日の写真:photo-AC 様:unicさん
咲かない花もある。咲かない花もあっていいな。