冒険をしよう!

こんにちは、MSLABOです。

ようやく関わっていた仕事も山場を超え、出口が見えてきました。「今回は、ピンチだったな~」とつぶやきたくなるような仕事でした。

ピンチの脱出方法少し落ち着いたので、そういえば買い置きしてあった本でも読もうと本棚をあさっていると、こんなタイトルの本を見つけました。「逆転スイッチ!:西沢 泰生:角川フォレスタ」。

文字通り人生のピンチで役に立ちそうな本で、いろいろな偉人や有名人がピンチを脱出したエピソードを紹介してくれています。・・・・えええええ・・・・正にピンチな時に読みたかったです、この本・・・・。ピンチを脱した後で存在を思い出すなんて・・(汗)

本に紹介されているのは、どの話も「こんなピンチの脱出方法があるのか!」と眼から鱗な方法や、考え方の転換に気が付かせていただける話ばかりです。そんな中で私が気に入った話を1つ紹介したいと思います。

南極観測隊の実例それは南極観測隊でのアクシデント。

南極には世界各国の観測基地があります。日本の基地としては「昭和基地」が有名ですね。「昭和基地」の他にも「ドーム富士基地(南極観測ドーム)」と呼ばれる観測所があるそうですが、これはそこでのお話。

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(参考URL:環境省 南極キッズ様)

Wikiによれば、ドーム富士基地の周辺は南極で最も低温な地域の一つなのだとか。どの程度寒いのかと言えば、1996年5月の平均気温が−54.4℃で、その年の最低気温は−79.7℃。約マイナス80℃です・・・。

家庭用の冷凍庫は-20℃程度まで。魚屋さんとかお寿司屋さんが使うプロユースの冷凍庫でも-40℃から-60℃までです。ドライアイスでさえ−78.5℃。なんと最低気温がドライアイスより低い・・・・想像できない世界です(汗)

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(画像URL:わくわく日記 様)

そんな極寒の基地では暖房に燃料を使いますが、爆発事故などを防ぐために燃料は基地から少し離れた場所にドラム缶に入れて保管されており、必要に応じてソリに乗せて雪上車で基地まで運ぶ事になっていました。

ところがあろうことか、越冬中にトラブルが発生し、雪上車が動かなくなってしまいます。燃料を基地まで運べなくなったのです。まさにピーンチです。-80℃近い極寒の最中、暖房の燃料が切れれば、全員凍死です。

さて、そんなピンチをどうやって乗り越えたのでしょうか?。・・・え、近くの基地から燃料を分けてもらったんじゃないかですって?。・・・残念ながら、違います(笑)。

天下のGoogle先生でも南極の完全な地図は出てきませんので正確な距離は不明ですが、上記環境省の絵でもわかるように、ドーム富士の近くには日本はおろか他国の基地さえ存在していないのです。

そんな中、観測隊員達がとった解決手段とは・・・

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なんと、燃料が入ったドラム缶を人力で転がして基地まで運んだのです。どこもかしこもアスファルトで舗装された日本では想像できませんが、デコボコした雪上を、吹雪の中、200kg以上あると思われるドラム缶を転がして運ぶのは容易ではありません。

この話を紹介してくれている西沢さんは、次のように書かれています。「ピンチに陥ったとき。意外とあてになるのが人力」。
IT業界は人力業界
ちなみに最新技術の象徴であるコンピュータ業界ですが、内幕は「人海戦術」がモノを言う世界です。まさに「人力業界」なんですね。いまだに、困ったときは「人」と「数」が力を発揮します。

IT業界以外の方には信じられないかもしれませんが、すこし大げさに言えば、人間が1つ1つプログラムを組み上げ、手作りでコンピュータ・システムを動かしているのが実情なのです。

今回の私のプロジェクトも、まさに多くの人に助けてもらいました。ですので西沢さんが紹介されていた南極の話は、人事には思えないピンチの切り抜け方法だったわけです。

輝く瞳で語るものは南極と言えば、お台場埠頭に展示されている日本の南極観測船第1号である「宗谷」を見学に行ってきました。

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思ったよりも大きな船で驚きました。しかしそれよりも感動したのが、操舵室で「宗谷に搭乗して、第1次南極観測(1956年11月8日~1957年4月24日)に出かけた本物の観測隊員の方」に直接お話を伺うことができた事です。

第1次南極観測の時、宗谷は偏西風の影響を受けて猛烈に揺れたそうです。食堂では揺れを考慮して食器をテーブルに固定していました。しかし食器の上の料理は暴れまくり、肉や野菜がテーブルの端まで飛んで行く(汗)。揺れのため睡眠もできないような状況下での航海だったそうです。

第1次南極観測といえば、時代的に生きて帰れるかどうかわからない旅路です。彼が奥様に南極行きが決まった事を話した時、奥様はたいそうショックを受け、出発までの1週間はろくに口もきいてもらえなかったそうで・・・(苦笑)。

説明頂いた方は、もちろんかなり御高齢のお爺さんだったわけですが、航海の思い出を語る時の彼の目は、今でも輝いていたのが印象的でした

『創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後、天命に委(ま)かせるより仕方はない。』
芥川 龍之介 芥川 龍之介:小説家

モノ作りは冒険だと偉人は言います。

私には南極に出かけるような冒険はできませんが、創作を行うことならできそうです。そして考えてみれば、「瞳を輝かせて語られる」のは、何の苦労もなく成功した話などではないですよね。

ワクワクする事に取り組み(冒険し)、苦労し、真剣に生きた経験だけが「輝いた瞳」で語られるのではないでしょうか?。

宗谷を見学し、西沢さんの本を読んで、私も年老いた時に「何かを輝いた瞳で語りたい」と思わせていただきました

名古屋:伏見のオフィスより感謝を込めて。

長い文章を読んで頂き、ありがとうございます。あなたによきことが雪崩のごとく起きますように。


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今日の学び:輝いた瞳で語れる経験をせよ!
今日の箴言:芥川 龍之介:小説家
今日の書籍:逆転スイッチ!:西沢 泰生:角川フォレスタ
今日の写真:illust-AC 様;きのこさん

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